Pinball
How to
歴史
フリッパーピンボール(Flipper
Pinball)(通称「フリッパー」または「ピンボール」)とは遊戯に用いられる機械であり、金属の球を用いて点数を競うゲームである。基本的な構造は傾斜した盤面とそこを転がり落ちる球、それが最後に落下しないよう跳ね返す、フリッパー(元の意味は型の似ている「水かき」)と呼ばれる部品からなる。盤面にはさまざまな障害物や得点となるターゲットがあり、多くは自動で球を跳ね返す。プレイヤーはフリッパーで球を跳ね返しながら、できるだけ長時間維持しターゲットに当て得点を重ねる。盤面はスポーツや映画などを題材にさまざまな工夫が凝らされている。古典的なアーケードゲームの代表的なものである。
また早くからピンボールのビデオゲーム化もなされており、コンピュータゲームやコンシューマゲームにおいても様々な形で作られており、中には実在のピンボール機をシミュレートした物も作られている。
ピンボールのルーツは19世紀にアメリカで流行した「バガテル/Bagatelle」というビリヤードに似た玉突きゲームだと言われている。その後いろいろと改良が加えられたバガテルだが、1930年代にはいると大きな転換点を迎える。
デビット・ゴットリーブの設立したゴットリーブ社が
1931年に製造したのが「Baffle Ball」で、このマシンの大ヒットが、今日のピンボール産業の基礎を確立した。これは世界で最初に商業的に成功したピンボールであることは間違いなく、この点からもこのマシンを世界初のピンボールとする意見が一般的である。そして、この時のゴットリーブ社のディストリビューターに、バリー社の創設者のレイモンド・モロニーやウィリアムス社の創設者のハリー・ウィリアムスがいた。
モロニーは、あまりにも売れる「Baffle Ball」をみて、「Ballyhoo」というピンボールを開発し発売した。そして、ここからバリーという社名を採用したのである。しかし、ゴットリーブ社が常に健全なアミューズメント・マシンの開発に注力したのと異なり、バリー社の歴史はギャンブル・マシンの開発と切り離して語ることはできない。バリー社は
1933年には初のペイ・アウト・マシン「Rocket」を発表した。
当時、多くの業界人は現金を支払うペイ・アウト・マシンの将来に楽観的で、ゴットリーブ社やゲンコ社以外のほとんどのメーカーがこれに追随した。だが、ペイアウトは人々の反感をかうようになり、新聞でオペレーターは犯罪者のように扱われ、ピンボールをするプレイヤーは、働かずしてお金を稼ごうとする怠け者と見なされるようになっていった。そしてニューヨークを初めとする全米各地で、ピンボールが禁止されていった。ピンボール生産の中心であるシカゴでさえも、ピンボールは禁止されてしまったのである。
ウィリアムス社の創設者は、いうまでもなく「ピンボールの父,ピンボールのエジソン」と呼ばれるハリー・ウィリアムスである。しかし、デビット・ゴットリーブがゴットリーブ社の歴史と共に歩んだのと異なり、ウィリアムス社の業績はハリー・ウィリアムスの人生の歴史とイコールではない。
ウィリアムスの偉大な発明、電気式マシンの発明(「Contact」
1933年,パシフィック・アミューズメント社)と、TILTの発明(「Signal」1934年,バリー社)は、いずれもウィリアムス社を創業する以前のものである。この様な発明で、ピンボール・デザイナーとしての名声を固めたハリー・ウィリアムスは、バリー社,イグジィビット社などのピンボール・メーカーの仕事をした後、
1942年についに自分の会社ウィリアムス社を設立した。そして1947年にサム・スターンがウィリアム社の共同経営者になり、彼に会社を売却する1959年までウィリアムス社を経営していた。余談であるが、ハリー・ウィリアムスはその後ピンボール・デザイナーとしてウィリアムス社で「Toledo」1976年を、スターン社で「Galaxy」1980年や「Flight
2000」
1980年などのマシンのデザインを手がけたり、ピンボール・コンサルタントとして活動をしていた。
1930年以降、バックグラスの導入やエレクトロニクス化によりピンボールは発展したが、バリー社によるペイ・アウト・マシンの発明と普及によって、次第にピンボールはギャンブル・マシンと見なされていく。しかし、ゴットリーブ社はペイ・アウト・マシンを生産しなかったことで、ピンボール業界を救うことになる。デビット・ゴットリーブは、ある意味では非常に保守的な経営者で、この様なギャンブル化の方向を好まなかった。そういった部分は、マシンのデザインにも現れており、これをゴットリーブ社らしさとも言うことができる。
そして、現在のピンボールの基礎となったのが、
1947年のフリッパーを備えた世界最初のピンボール「Humpty Dumpty」である。これにより、ピンボールはペイ・アウト・マシンやビンゴとは一線を画すことになる。それまでの、ボールをプランジャーで打ちだしたあとは運任せだったゲーム性を、フリッパーの発明によりプレイヤーの技術介入可能な、スキル・ゲームに変えたのである。しかし、初期のフリッパーは、現在のようにフィールド下部に左右に配置され、ボールが落ちるのを防ぎかつどこかを狙うといったような性質のパーツではなかった。だが、このフリッパーの発明こそが、現在のフリッパー・ピンボールの礎を築いたのである。また、
1960年「Flipper」に導入されたアド・ア・ボールという概念はクレジットとも異なり、ピンボールをギャンブル・マシンと明確に区別する発明だった。
フリッパーの発明により、ギャンブル・マシンとは異なるアミューズメント・マシンに傾倒していったピンボールは、
1960年代に入るとさらに発展を続けていく。バリー社は1963年に他社にはないマッシュルーム・バンパーを備えた「Monte
Carlo」を発表した。続いて1966年に、初めての閉じるフリッパーであるジッパー・フリッパーを備えた「Bazaar」を発表した。
ウィリアムス社のスティーブ・コーデックは、1960年にムービング・ターゲットを搭載した初のマシン「Magic Clock」を、1962年には初のドロップ・ターゲットを持つマシン「Vagabond」を製作した。ゴットリーブ社も斬新なフィーチャーを持つ「Slick Chick」1963年を初めとして、「Gigi」1963年、「King & Queens」1965年などヒットを飛ばした。
さてピンボールの歴史を語るには、もう1社の名前を挙げなくてはならない。それはシカゴコイン社である。創立者サム・ゲンズバーグは、同じピンボール・メーカーだったゲンコ社を設立したゲンズバーグ兄弟の4番目の弟である。彼はゲンコ社には参加せず独自にシカゴコイン社を設立した。そして、様々なアミューズメント・マシンを作り出していった。どちらかといえばシカゴコインの名前は、ガン・ゲームやベースボール・ゲームで広く知られているが、45年の歴史のなかで220台以上のピンボールを生み出している。そのうち、フリッパーが付いたいわゆるフリッパー・ピンボールは66台を数える。日本でも、「Hula-Hula」1965年、「Gun Smoke」1968年、などはなかなか人気があったマシンである。
サム・スターンは1959年にウィリアムス社のオーナーとなり、後にこれを売却した。そして彼は、1977年にシカゴコイン社を買収し社名をスターン社として、ピンボールの生産を続けた。
1970年代に入っても、ピンボールは隆盛だった。バリー社の「Fireball」1971年、「Nip-It」1972年、「Wizard」1974年、「Capt. Fantastic」1975年などは、今でもピンボール・コレクターに人気が高い。なかでも大物ロック・バンドTHE WHOの「Tommy」はピンボールをテーマにしたロックオペラで、音楽も同名の映画も大ヒットとなった。このタイアップ・マシンの「Wizard」と、Elton Joneがバックグラスに描かれている「Capt. Fantastic」の成功は、バリー社を業界のトップ・メーカーに押し上げた。ウィリアムス社は「Klondike」1971年、「Doodle Bug」1971年、「OXO」1973年、「Space Mission」1976年等の傑作マシンを製造した。ゴットリーブ社も「High Hand」1973年、 「Top Score」1975年、「Spirit of '76」1975年、「Big Hit」1977年などを作り、これらは今でもファンが多い。シカゴコイン社も「Hee Haw」1973年「Cinema」1976年などのヒット機種を出した。
そして、ピンボールは健全なアミューズメントとして認知され、ピンボールを禁止する法律も解禁されていった。まさに4大メーカーが傑作を次々とリリースし、ピンボールが隆盛を極めた時代だった。余談ではあるが、日本やヨーロッパなどでその国独自のピンボールが作られたのも、主としてこの時代である。日本ではセガ社が25台以上のピンボールを製造した。他にもユニバーサル(現アルゼ)社などがピンボールを作っていた。
しかし、ピンボールを脅かす新たな勢力が台頭してきた。それがビデオ・ゲームの出現である。これによりピンボールは次々とアーケードから撤去され、メーカーは危機感を強めた。
そして、それまでのリレーを使ったピンボール(いわゆるエレメカ)から、IC化したソリッド・ステイト・ピンボールを開発していった。面白いことに、ソリッド・ステイト・ピンボールの先鞭を付けたのは4大メーカーではなく、アライドレジャー社の「Dyn O' Mite」1975年である。ただしこのマシンはソリッド・ステイトを取り入れたハイブリッド・ピンボールとして知られており、トータルにソリッド・ステイト化されたピンボールの最初のマシンは、同じ1975年にミルコ社の「Spirit of 76」と言われている。実は各社とも密かに研究はしていたようなのだが、正式に量産されたのはバリー社「Freedom」1976年、ウィリアムス社「Hot Tip」1977年、ゴットリーブ社「Cleopatra」1977年とされている。
1960年代から1970年代までの、ソリッド・ステイト化される前のゴットリーブ社には傑作が多い。今でも、この時代のゴットリーブ社のエレメカ・マシンを、バリーやウィリアムスよりも好むオペレーターは多く存在している。しかし残念なことに、ゴットリーブは徐々に時代の進歩から取り残されていった。その後のソリッド・ステイト・ピンボールの登場にもうまく対応したバリー社は、1977年に累計生産台数20,000台を越える大ヒット作「Eight Ball」を発表した。これは、その後10年以上破られない記録となった。
ウィリアムス社、ゴットリーブ社、1977年にサム・スターンによりシカゴコイン社を買収したスターン社も奮闘していた。1970年代までのゴットリーブ社や1970年代から80年代]]にかけてのバリー社隆盛の時代、ウィリアムス社は1990年代のようなトップ・メーカーとは言い難かった。大手ではあったが、2番手以下のメーカーであった。「Firepower」1980年、「Black Knight」1980年などのヒットはあったものの、プレイヤーの評価も業績もあまり芳ばしくなく、一時期バリー社に買収されるという話があった程である。
さらに1980年代半ばになるとピンボールの衰退は顕著になった。各メーカーは試行錯誤を繰り返したが、打開策はなかなか見出せなかった。バイ・レベル・マシン(多段階構造マシン)、リメイク・マシン、ビデオ・ゲームとの合体ピンボール、などの変わったピンボールが出現したが、所詮亜流でありヒットには結びつかなかった。
その中でスターン社は1984年に倒産した。ゴットリーブ社は1983年にミルスター社に社名を変更し、ビデオ・ゲームにも力を入れる方針を打ち出したが、1984年に工場閉鎖に追い込まれた。しかし、地元の投資家を募って1984年にプリミア社として操業を再開し、ブランドとしてゴットリーブを継承していくことができた。
ウィリアムス社のピンボールを支えてきたのは、スティーブ・コーデック、スティーブ・リッチー、マーク・リッチー、パット・ローラーなどのデザイナー陣である。特にスティーブ・コーデックはピンボール・デザイナーとしてベテランで1940年代から今まで100台以上のピンボールをデザインしている。「Space Ship」1961年、「Friendship "7"」1962年、「Hot Line」1966年、「Cabaret」1968年、「Super Star」1972年、「Space Mission」1976年、「Wild Card」1977年などは名作として知られている。
さて、このピンボールの危機的状況を打破したのが、ウィリアムス社の1984年「Space Shuttle」だった。プレイフィールド内部にNASAのスペース・シャトルの模型を配置したこのマシンは、久しぶりのヒット作となった。実は、ウィリアムス社はこのマシンに存亡をかけていて、一定の受注が取れなければピンボール事業からの撤退をする予定だった。無事にこのボーダを超えたウィリアムス社は、ピンボール業界の新たなリーダーになっていく。
そして、ウィリアムス社の復活を決定したのが、1985年の「High-Speed」である。スティーブ・リッチーデザインのこのマシンは、ジャックポットやステータス・レポートを採用した初のマシンであり、さらに、故障しているスイッチを検出するための自動スイッチテストと、プレイヤーのレベルに応じて自動的にリプレイ点を調整する自動リプレイパーセンテージ等の新機能も採用した。スティーブ・リッチーはこの後も「F-14 Tomcat」1987年などのヒット作をデザインした。
一方、1980年代半ばになり業績不振に苦しんでいたバリー社は、1988年ついにピンボール部門をウィリアムス社の親会社であるWMSに売却することになった。バリーはブランドとしては残ったが、これ以降のバリーブランドのマシンは徐々にウィリアムス社のマシンに似た内容になり、デザイナーの垣根もなくなっていくことになる。
1987年に日本のデータ・イースト社は、アメリカでのピンボール事業をスタートさせた。こうして生まれたのが、データ・イースト・ピンボールである。発足にあたって、サム・スターンの息子のゲイリー・スターンが総支配人となった。しかし、データ・イースト社のマシンは、スターン社の伝統を受け継いだというよりは、ゲーム内容ではウィリアムス社の影響を強く受けていた。これは、フリッパーの形状やゲームルールなどからもうかがうことができる。
だが、ウィリアムス社に対抗すべく、データ・イースト社は、独自の技術やシステムを積極的に取り入れていった。第一作の「Laser War」は、ピンボールとして初のデジタル・ステレオ・サウンドを採用しており、のちにウィリアムス社もこれに追随することになる。
1989年には世界初のソリッド・ステイト・フリッパーを備えた「Robocop」を発表した。これは、フリッパー・コイルに流れる電流を今までのEOS・スイッチにより制御する方式から、基板によりコントロールするシステムに変更したものである。なお「Robocop」の2作前のマシンである「Playboy」1989年において、一部のマシンにはこのソリッド・ステイト・フリッパーが採用されていた。
1991年には、初のドットマトリックス・ディスプレイを備えた「Checkpoint」を発表した。これはその後の各メーカーの主流となり、ウィリアムスは「Terminator2」,バリーは「Gilligan’s Island」,ゴットリーブ「Super Mario Bros.」でドットマトリックス・ディスプレイを採用する事になる。
その後データ・イースト社のシェアは、ゴットリーブを抜いて業界第2位になった。つまりウィリアムス/バリーに次ぐメーカーになったのである。特に版権を使用したマシンの積極的な導入により、大いに業績を伸ばした。「Batman」1991年、「Lethal Weapon 3」1992年、「Star Wars」1992年、「Jurassic Park」1993年、「Guns N’ Roses」1994年などのビッグタイトルを連発し好評だった。
この時期、ウィリアムス社は相変わらず好調で、ヒット作を作り続けていた。マーク・リッチーは、「Taxi」1988年を、のちに「Indiana Jones」1993年などを手がけた。パット・ローラーは「Banzai Run」1988年、「Earthshaker!」1989年などの傑作マシンを発表した。特に「Whirlwind」1989年は、ミニ・ゲームとそれを全て完成させたあとのビッグ・ゲーム、という概念を初めて取り入れたマシンで、その後のゲーム・コンセプトに多大な影響を与えた。1992年にパット・ローラーがデザインしたバリーの「The Addams Family」が、累計生産台数22,000台を記録し、「Eight Ball」の持つフリッパー・ピンボールとしての記録を14年]]ぶりに破った。
1990年代に入ると、ピンボールのフィーチャーはますます複雑になった。また、版権マシンがメインになりバリーは「Creature from the Black Lagoon」1992年、「NBA Fastbreak」1997年、ウィリアムスは「Indiana Jones」1993年、「Star Trek The Next Generation」1993年、「Congo」1995年、ゴットリーブは「Street Fighter II」1993年、「Stargate」1995年、データ・イーストは「Last Action Hero」1993年、「Maverick the Movie」1994年などがリリースされ、点数はインフレ化する一方だった。
そして、1994年以降ピンボールの市場は急激に冷え込んでいく。あまりに複雑なゲーム性や、家庭用ゲームの普及などによるプレイヤー離れに加えて、メインテナンスに手が掛かるピンボールをアーケードが嫌がり、なおかつインカムが上がらない事等が、その衰退の主な原因と考えられる。複雑で難易度の高いルールや1000億点の桁の出現といった、行き過ぎた部分に多くの人達がピンボールを楽しめなくなっていったのである。
このような中で、ゴットリーブのピンボールは、ウィリアムス/バリーやデータ・イースト/セガ([[1994〜[[1999)に比べて地味な傾向は否定しがたく、業績が回復することは難しかった。結局、世界的なピンボール市場の低迷を受けて1996年に業務を停止した。ここに、世界最初のピンボール・メーカーであり最古のブランドであるゴットリーブの歴史は66年の幕を閉じた。
そして、ウィリアムス/バリーは、ピンボール 2000というブラウン管をディスプレイとして組み込んだ新たな試みをピンボールに取り入れた。これは同社のピンボールの苦境を脱する最後のチャレンジだった。ウィリアムスは大ヒット映画となった「Star Wars Episode I」の版権を獲得し、同名のピンボールをピンボール 2000のウィリアムス・ブランド第1弾として発表した。
しかし、1999年10月にウィリアムス/バリーの親会社であるWMSはピンボールの生産からの撤退を公式に発表した。ここにウィリアムスは58年、バリーは69年の歴史を閉じることとなった。これによって、ウィリアムス、バリー、ゴットリーブというピンボールを代表してきたブランドはすべて消滅することになった。
1994年にデータ・イースト・ピンボール社はセガのアメリカ法人に売却され、セガ・ピンボール社が誕生した。1999年にはさらにセガ・ピンボール社を ゲイリー・スターンが買い取りスターン・ピンボール社が発足した。スターンの復活である。10月末にはウィリアムス/バリーがピンボールの生産からの撤退を発表し、スターン・ピンボール社はピンボールの生産を続ける唯一のメーカーになってしまった。残ったスターン・ピンボール社は、その後ピンボール業界の有力なデザイナーやスタッフが集まる拠り所となり、「Terminator 3」2003年、「The Lord of The Rings」2003年、「Elvis」2004年、「The Sopranos」2005年、「Pirates of the Caribbean」2006年といったマシンをコンスタントに発表している。